創始者の本とワークはATJ

ATJ・アレクサンダーテクニークジャパンには
FMアレクサンダー氏の本当のワークがあります。

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  ●アフォリズム(教える言葉)、論文と講演集より

ATJ翻訳チームではFM氏の全著作を日本語で利用できるようにこつこつやっています。氏には4冊の書き下ろし著作と別冊の「論文と講演集」があります。このページにはその別冊に収録されている一部を紹介します。
原文 Articles and Lectures  ISBN 0-9525574ー6-0
授業中のFM氏が語ったセリフを生徒が書きとめておいたメモがありました。アフォリズムという英語の意味は金言・名言集のようなもので、つまり、FM発言のいくつかが残されました。FM氏は役者でしたから授業中に手を使いながら、実は雄弁に言葉を使っていました。なにしろ教授内容が内容だけに、一休さんのトンチかダジャレみたいなものからかなり厳しい言及まで、現場の文脈なしには本当の意味はわかりませんけれども、現在全世界の教師が愛用するセリフにここから採用されているものが数多くあります。翻訳者は池田智紀です。「人類の最高遺産」日本版付録としてまもなく出版されます。
 
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  アフォリズム・教えの言葉 1930年代、本文全文
論文と講演集 F.M.=アレクサンダー著 より」

【第16章】
 F.M.=アレクサンダーのレッスンから122個の引用句が、エセル=ウェブによって書き留められた。彼女はアレクサンダーの助手の1人である〔原注〕。1920年代と1930年代にアレクサンダーの秘書として彼女は働き、アシュリー・プレイスにあるアレクサンダーの教室とは別に小さい事務所として代行していた。事務所と教室の間にある扉はたびたび少し開いており、どのようにアレクサンダーがテクニークを教えたり説明したりしていることに、トレーニングコース中の教師や生徒達が、時々「立ち聞き」していたのだろう。エセルが秘書として働いていた席から、レッスン中の会話を聞くことができたのだ。時折、紙とペンを持って彼女は扉に忍び寄り、このような「格言」を書き留めたのである。
 戦時中、建物は軽い爆撃の被害に遭ったが、彼女の覚え書きを保護するために、バーロー博士はそれを移動した(彼女とアレクサンダーはこのときアメリカにいた)。アレクサンダー・ジャーナル(7号、1972、pp.41―48)で、バーロー博士はそれらを後に発表した。その内容はここに示された版である(原典の所在は不確かである)。
 アレクサンダーの言葉に付随していた、語調と身振り手振りを我々は知ることができないが、それは彼の発言を明確にしていたり、あるいは意味を修飾していたりしただろう。記録された言葉は、教えている状況の「断片」を我々に与える。すなわち、この引用句はテクニークについての簡潔であると同時に辛辣な言葉なのである。

(原注 「ピップ」=エセル=マリー=ウェブ(1866-1952)は、英国のピアノ奏者とアレクサンダーテクニークの教師であり、F.M.=アレクサンダーの助手である。彼女は1890年代にベルリン市でピアノを学び、すばらしいピアノ奏者となったのだが、プロの演奏をするための体力を持っていなかった。彼女はMSI(1910)に非常に感銘を受け、すぐにレッスンを受ける手配をした。それ以後、家族と友人たち心配にもかかわらず、アレクサンダーと彼のテクニークを支援するために自分の人生を捧げた。1913年に、マリア=モンテッソーリの教育手法とアレクサンダーのワークにある関連を研究するために彼女はローマ市へ行った。そこで彼女はアイリーン=タスカーとナウムブルグ女史に出会い、仲良くなった。そして両者ともこのテクニークに関わることになったのである。ニューヨーク市で(第1次世界大戦の間)、彼女はテクニークを用いて子供達を扱う仕事を始め、そして第2次世界大戦中のアメリカで、リトル・スクールの滞在中にその仕事を再開した。自分のファーストネームを嫌うのは、アシュリー・プレイスの生徒と教師に「ピップ」といつも呼ばれていたからだ。数年間、アレクサンダーのために多くの秘書の仕事を彼女はこなし、援助と支援の他に、彼の教育実践を確立することをアレクサンダーに与え、彼の生徒(事務員や教師、友人だけれども)に気を配り、通常の秘書の職務をはるかに超えて働いた。戦後に秘書の職から退任したが、彼女が亡くなるまで若干の経営上の業務を果たすために続けた。
 

  アフォリズム・教えの言葉  
 
こんなのは呼吸ではない。自分の胸を持ち上げながらつぶしているのだ。

「ようやくわかりました。自分が呼吸をしなければ、自分は呼吸をするのです......」(生徒より)

私が体得している呼吸の通りに呼吸をすると、何か変なことをしているのです。

調整とは過程になければならないのだ。上乗せされるものではない。

私があなたにもたらしているものは、できるだけ少ない要素なのです。なぜなら、はじめに起こる大事な調整のためだから。

あなた方が同意しない理由とは、感じのほかに同意を与えるものがないからなのだ。

あなたのお願いは、私がその椅子を動かすことなのですね。私がすべてを同意するなら、そうすることができるでしょう。

自己を協調することによって、自然の方向を君は変化できないのだ。

あなたは有機体を使おうとしているけれども、はじめから誤調整している有機体に基づいています。

彼らは自分のやりたいことに関しての知的な観念があるかもしれないし、自分の起こしたいことを書き留めているかもしれないが、どのようにそれをするつもりなのだろうか。残りの部分を変えることをしないのに。

変化とは生きる習慣に対抗して、活動を続けることを含んでいるのだ。

「床を足の裏でつかみなさい。」何の意味がこれにあるのだろうか。床を足で掴もうとしているとき、彼らの足の裏の半分はその脚に起きている緊張で離れているのに。

何かをすることをしないようにあなたはお願いされると、それをすることをしないという決意をする代わりに、あなたがそれをすることから自分を妨害しようとしているのです。しかし、これが意味することは、それをすると決意して、そしてそれをすることから自分を妨害するために筋肉緊張を使うと決めただけなのです。

存在しない物事は最も除き難いのだ。
任意の評価による最良の条件下でさえ、椅子に立ったり座ったりしているのではない。つまり、単純な身体訓練だ。その動きが起き始めるときの重要な準備を君はしているのだ。

正しい位置のようなものは決してないのだが、正しい方向のようなものはある。

人がこれまでにしてきたあらゆるものが、自分の習慣づけられた精神的な方向に従っており、この方向に対する信頼が、彼に与えようとしている新しい方向に取り換えようとしないようにさせるのだ。

自分の望んだ結果が自分に与えている方向を介して生じない場合、今ある調整された状態は、この結果をもたらすようなものでは今のところなかったからだ、と私は悟った。そしてそれゆえに、自分自身に唯一することといえば、正しく調整された状態が成熟するまで方向を出し続けることだとわかり、そうすると結果は苦もなく生じるということになるのだ。

私がやれているように君はうまく話せるよ。話すために何かしていることを止めればね。それは話すために誰もしていないことだ。つまり君のように吃音の人以外はやっていないことなのだよ。

あなたがやっているのは、いわゆる「構わないで」なのですよ。

授けるために言葉を伝えることはできますが、することは伝えられないのです。

あなたの場合、することとは非常に「やりすぎていること」なのです。動かしたい部分をほとんど麻痺させている程にしているのです。

する前によく時間をかけて考えなければならないのです。なぜかというと、することに関する古い考えが再び起きるからです。

するということをあなたは人に伝えられません。なぜかというと、あなたのしなければならないことは感覚的なものだからです。

しているというあなたの感じは、「少しずつやめている」ということです。

こういうものはそれ自体でうまくやれるのさ。

この世のすべての大ばか者達は、自分がしていると思うことを実際にしていると信じている。

あなたへのお願いは、何もしないことなのです。しかしあなたの行動は、まるで何かするようにお願いされたかのようだ。生き方の習慣が関係している自分の決断に従って行動するために、私はあなたを訓練しなければならないのだ。
自分の知らない何かをすることはできない。知っていることをやり続けているならばね。

あなたは決意をしていない。即ち、自分が正しく感じることを運動感覚的にしているのだ。

大切なことは、その活動の中でお子達がしていることなのだ。

あらゆる人が、昔からすべきことを教えている。そして、我々がすべきでないことをしているままにしておくのだ。

この結果にあわてていく状況は、次のような点に行き着く。それは麻薬よりもひどいということだ。

あなたの望む体験はそれを手に入れる過程にあるのだ。あなたが何かを持っているなら、それをあきらめなさい。手に入れること、つまり所持することをしないこと、それがあなたのしたいことです。

通常の教育手法の下では、19の悪いことを1つの正しい体験のために生徒は手に入れるのだ。それはあべこべのはずである。

S氏がやってきて自分の目に問題があるのだと話した。3日間ベッドに入っていたのだが、そのとき自分の目の働きが全く通常通りであると気づき、ベッドにいる間はずっとこれが続いたということだった。再び起き上がってすぐに歩き周り始めたのだが、再び彼の眼は悪くなっていった。

少年が脅えているということに対してあなたは間違っていると言います。そう言っているあなたが間違っていると私は言いましょう。そのような状況にあるときに彼が脅えていないならば、それこそ深刻であると言わなければなりません。

どんな愚か者でも自分の感じたいことをすることはできるのだ。つまり、それについての心配なんてないのだ。困難なことは、自分が感じたくもない自分の感じになることだ。

もし自分の首の感じが固いと思っても、首が固いと言わないことだ。

あなたがするように、何か新しいことに対して私が反応を示せば、私は間違ってしまう......。あなたの中で我々が消そうとしているものは、「個性」であるとあなたが思っているものなのだけれども、それを消すことができないのだ。個性とは習慣なのだから。

君はすべての古い先入観から抜け出すのです。なぜならば、君は古い習慣から抜け出している最中なのだから。

けれども人々は自分達がいつもやっていることで変わるとお思いなのだ。それこそが習慣を意味しており、私を参らせるものである。

すぐに一生涯の習慣を我々は捨てられるのだよ、自分の頭を使えばね。

椅子から立ち上がる、という何かしらを感じない限り、彼らは椅子から離れられないのだ!その何かしらが習慣なのだ。

自分の舌を引きながら「t」と発音してくださいと私はあなたにお願いしています。つまり「t」と発音しないのです。だから、厳密にあなたは予防して、指示を与え、そして「t」と発音しないのです。「t」と発音してくださいと私があなたにお願いするのは、あなたに「t」と発音してほしくないからです。その理由は「t」と発音することを拒む機会をあなたに与えたいからなのです。

予防しなさい。自分のしていることを止めるのです。そうするとあなたは中間点にいるのです。

するように要求されていない何かをあなたはやっています。いいですか、いわゆる不可能というものは、決して起こらないということなのです。するつもりのないことをしない限りはね。

彼らは「私は長くなろうとしています」と言って自分の目を上げている。もちろん、目を上げるということは、ブーツ以上に長くなるということは一切ないのだ。しかし、それ以降、これをすることで長くなるという観念は目を上げることと紐づけられるだろう。つまり、長くなるという考えがやってくると、構築されてしまった誤った関連性を破壊するために、彼らは目の動きを直ちに抑制しなければならないのだ。長くなるという命令を自分にするよりも前に。

君が物事に気づけないのは、手段が間違っているせいなのだ。

大衆が学習のかわりに脱学習という考えに向かうと、そうしたい気持ちにあなたもなるでしょう。

大衆の信じ続けているものが「知っている」ことならば、どんなものでも根絶しようがない。つまり、彼らに教えようがないのだ。

君の言葉とその感じを今つなげよう。それを学んだとき、どんな訓練するやり方を用いても学ぶのだ。

私の手を介する最も重要な考え方がいくらかあります。そして、実のところどんな考え方もあなたは望んでいないのです。あなたを悩ませているものは、私がするようにお願いしたことを、私が伝えた通りにやれるかどうかということだけです。

問題は「知性」なのだ。我々が熟知しているように、我々の内側で間違っているとき、それは唯一利用できるものなのだ。

すべて別の考え方なのです。あなたは葛藤するときにそれを手放しません。つまり、危険の中であなたを助けるのは「意識的に」なることなのです。私は支える筋肉を調整しているけれども、君は筋肉の調子を狂わせているうえに、とてつもない頑張りで自分を支えているのです。その結果、その努力を止めると、あなたの崩れる姿はこれまでよりひどくなるのです。

調査が行われるようになって発見されることは、ワークの中で我々がしているありとあらゆることであり、正しい状態である自然においてまさしく行われていることである。その違いは、我々が意識的にそうすることを学んでいるということなのだ。

一連の指示をそれらが一致するまで繰り返しなさい。

動く前に指示を出しなさい。そして動いている最中も指示を出し続けなさい。

君がその指示を続けるならば、消すことは千年たってもできないだろう。しかし、自分の出している指示を忘れてしまえば、すぐに消すことができるだろう。

あなたが自分の指示を与えるなら私と格闘せずに済むのですよ。あなたは私と戦っているだけなのです。なぜなら、あなたの考えるあなたにしてもらいたいことと、私がしていることを「しよう」としているからなのです。

指示を与えて、それが実行されないことを神に祈るところまで行くと、あなたは第一歩を踏み出しているのだ。

どうすれば「すること」以外を指示できるのだろうか。することを理解しているようにさえやっていないのに。

「手放しました。」自分の手放したかったことをあなたは手放したのだ。すなわち、留めたかったことは手放していないのである。

指示を出しながら隅々まで、一つ、二つ、三つと続けるのです。始まりから誤った動きを抑制し、それから動き始めるときに新しい指示を出すのです。どうすれば間違うことができるのでしょう。

指示を出している過程で我々は結果を手に入れたいだけなのです。頭が前に上に、背中が長く広く、云々というように。

指示を与えなさい。頭が前に上に、下に肩を、背中は広く、悩むものは何もないのだ。一つの指示は別の指示を出すのだ。

指示を与えることが役立たずになるときは、すでに誤ったことをしてしまったときなのだ。もちろん、あなたのしたことが指示する際の誤解を起因にしているならば、それは別だろう。そのとき元に戻ることもできるし、別の指示を出すこともできるのだ。

指示を与えていることが役立たずになるときは、何かすることに関する知性の裏側に考えがあるときだ。

正しい位置を感じることがあります。しかし、不完全な調整に合う位置になっただけなのです。

教育に関する至る所で我々が強制されたことは、理論を具体的な手順に翻訳させようとすることなのです。

何か取り除くことを手伝ってもらおうと懇願する人は、取り除くための努力を決してしないだろう。

人が発展していくためにあなたが原理を適用するならば、多くのことを学ぶだろう。

誰にでも難しいことは、過去のでたらめな結果にあわてていく手法の代わりに原理を応用しなければならないという、新しい生き方を始めることなのです。時間のかかる過程を示していけれども、我々は皆、日々の着実な改善に満足しなければならないのです。しかし、我々が配慮しなければならないことは、その日その日であらゆる方向に関するすべての試みについて、適用する原理を実際に信頼しなければならないのです。自分の正しさは間違っているとレッスンで最初に学んだにもかかわらず、正しくなることをあまりに心配しています。しかしながら、自分の問題をよく考えながらあなたはうまくやれたのです。そうすれば、調整された自己の使い方を改善し続けるでしょう。着実にワークをして、指示されたようにしたらですけどね。(手紙から抜粋)

宗教観の真髄とは、宗教が宗教自体によって枠に留まるべきでないということであるが、「日々の活動」や「共通する目的」の基礎をなす、常に存在する指針でなければならない。だからまた、我々の活動に関する日々の仕事においてこの原理を適用できるし、それらの活動をしながら注意を失うことなしにやれるのだ。

我々の働かせている原理によって生じることから信じる、と彼らの言うまさに理想を彼らは阻むのだ。

私は最善をつくしているけれども、あなたがそれを知らず、そしてそれを理解しないのならば、あなたのする反応はまるで私を敵かのように振る舞うだろうね。

君の持っている力が魔法で泥棒を改心させるものであると思ってみなさい。役に立たないだろう。ある男は、誘惑に抵抗する体験がないし(すなわち、正しい反応も誤った反応も、特定の刺激に対して体験したことがないのだ)、99回の正しい反応を1回の誤った反応に対してする体験がないのだ。泥棒であることから改心させることができるより前に、それらの体験を男がしなければならないものなのだ。

結果を手に入れずに毎日過ごしながら満足することは、誰もあり得ない。もし彼らがやり方を見直したなら話は別だが。

もしあなたが何か過程に影響を及ぼすことをしたならば、それらの過程で起こる結果におそらく作用する何かをしているに違いない。

皆さんが信じていることがあります。上達をすれば、自分達が正しいのか間違っているのか見分けがつくに違いない、ということを。

あなたがここにいるのは、運動をするためや正しくすることを学ぶためではなく、いつもあなたを間違った方向に導く刺激と直面できるようになり、その扱いを学ぶためなのです。

自分の行為に対して抑制したり、方向を出したりすることをあなたは学ぶために来たのです。あなたは、まず抑制することを学びました。習慣的な反応を特定の刺激に対して止めるのです。次に方向を出すことを学びました。特定の筋肉が動くのに作用するやり方で、自分自身へ意識的に指示するのです。これらが刺激に対して新しい反応をもたらす手順です。要約しましょう。所定の刺激に対して特定の反応を抑制することにすべては行き着くのです。
しかし、このやり方をわかる人はいないでしょう。彼らは、おそらく椅子に座ったり立ったりするときの正しいやり方だと思っているのです。そういうものではありません。自分のすることに同意するのか、あるいは同意しないのかということを生徒が決めるのです。解剖学や生理学を顔色が変わるまで、このやり方がわからない人らは教えるかもしれません。すなわち、まだこの側面をあなたは持っているのです。生き方の習慣に対抗して決意を貫きなさい。

正しい行為は最後にすることなのです。最後にすることは自分自身に託したやるべきことなのです。なぜなら、正しい行為を我々が考えなければいけないのは、最後にすることだからです。

皆さんの知りたいことは自分が正しいかどうかでしょう。さらに進むと、皆さんは正しくなるでしょうが、それを識別しないし、正しいかどうかを知りたくないでしょう。

自分が正しいかどうか確かめるのを待つのです。それを根絶する考えをあげましょう。直接的に、邪魔している障害物が消されることを、正しいかどうか心配するのではないのだ。

もちろんあなたの指示は、それらを投影するためにしたことだと覚えておかなければなりません。しかし、それで満足してはならないのです。というのも、そのことが正しくできているかどうか、あなたは確認しようとすることがあるからです。
それが正しいとき、あなたはそれをしていないだろう。あなたがそれをするということは、ただ間違っているときだけなのだ。

正しくやろうとする古い考えが、我々に残ってしまうのだよ。状況が変わると我々の正しさは誤っているという事実があるのにもかかわらず。

子供たちに方向を誤らせることの愚かさとは、彼らが方向を誤ったら、正しいことが誤ったことになるということだ。したがって、より正しくしようとするほど、より方向を誤るのだ。

私の所に来るな。君の間違いを伝えたときに、微笑み、喜ぶつもりで受け入れるまで来るな。

あなたが正しいときはいつでも、あなたに伝えたその時最適な手段を利用するための動機は間違っているのです。

さあ、17歳の若者よ、私が知らせたように自分が間違っていると知っているね。君の「正しさ」が間違っていると示しているのではないのだ。なぜなら君は一度も間違おうとしていないからね。君はいつも正しくしようとしていたのだ。私が君にしてもらいたいことは、特定の指示を出し、次に抑制をして、正しくしようとするとてつもない努力を止めることなのだ。

どんなときに我々が間違っているのかを知ることが、我々がこれまでにこの世で知っているすべてなのだ。

今日完璧になったとしたら、そう思わないように。君は完璧から遠く離れて、これまでよりも先へ行くのだ。

直接的に彼らを正しところへ連れて行ったとしたら、彼らは続けないだろうし、(駆り立てるものもないので)彼らは続けたくないだろう。つまり、すべての活力と成果がただ利用可能なのは、誤ったものが付随されたときだけなのである。

何か指摘されたとき、我々が唯一持っている考えは、誤っているものから正しいものにすることなのだ。事実として誤ったことを何年間もしていたにもかかわらず、我々はすぐに正しくしようとする。

友人のように、まず間違っていることを止めなさい。

あなたが変わる瞬間、緊張でないものを緊張と感じるでしょう。

誰でも正しくしたいのですが、しかし誰も正しいという考えが正しいかどうか考えるために立ち止まらないのです。

理解することができる点に到達するとき、まさに見えるものがある。経験が中身を作り、それが成長するのだ。

なにもやる事がない人々がいます。彼らはそれをちゃんと理解します。

人々が間違っているとき、正しいことは彼らにとって間違いに違いないのだ。

私が君に与えようとしているものはすべて、新しい体験なのです。

正しい位置だと感じることを体験したけれども、彼が不完全な調整ならば、欠陥のある調整に合う位置になっているだけなのだ。

頭が前に上にという考えを連想する状態を感じる限り、頭が前に上にやることに活力を与えないだろう。そしてそれは、不運にも、堅くしたり短くしたりすることとであり、まさに前に上にいくこととは逆方向なのだ。

ある事態が起こりつつあるとき、彼はある段階にさしかかっている。ある事態が起き始まるよりも前に、彼はその段階にいて、それらを感じることを楽しんでいたのだ。今ではそれを過ぎ去り、何も起こらないと彼は考えている。

感覚的評価は観念を条件付ける。あなたがこれを知ることができないのは、間違った手段のせいである。

自分の感じが信頼できる時がくると、あなたはそれを使いたくないだろう。

それが事実を変えないのは、それを感じられないからだ。

書かれていることに注意しなさい。書かれているようにあなたは読んでいないかもしれない。

実のところ、いわゆる「知性」よりも感じは多く利用されるのです。それが正当であるならばね。

私が出かけて行って誰かの所で歌のレッスンを受けたとしても、歌の教師が私に教えることはないだろう。つまり、私を痛めつけることができなかったのだ。

ひとつの方向を手に入れるということは、もうひとつの方向を失うことになる。それ故に、あなたは特定の結果を達成しようとしてはならないのだ。

特定の予防が容認されるのは、していない、することをしないという条件下だけである。

全体の機構が原因となって特有の問題を起こすのだ。これについての証明は、過程の中で我々が特有の欠陥を撲滅するということである。

皆さんはあらゆることを翻訳しています。肉体的なもの、精神的なもの、あるいは霊的なものでさえも、筋肉の緊張となるのです。

すべて別の考え方なのです。あなたが葛藤するとき、それを手放しません。つまり、危険の中であなたを助けるのは意識的になることなのです。

どんな人間をあなたが連れてくるか私は気にしない。ソクラテスや他の誰であってもね。すなわち、その人の思考に隙や穴をあなたは見つけるだろう。私に調整をさせなさい。そうすると彼の思考に隙や穴は見つけられないだろう。

試しにやってみるということは、我々のすでに知っていることをただ強調するだけなのだ。

人類の個性と人格について話そう。それはその人が自分を使うやり方なのだ。

あなたが私に肺活量の水準を上げさせて、適切に自己の使い方を教えさせてくれたなら、あなたは何でも受け入れることができるし、自分を傷つけることもないだろう。

方向なしにしようとすること、つまりあなたが間違っており、「やろう」とするならば、神様お助けください。

 
 
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