説教は、主な職業としている人もいるし、最も一般的趣味にもなる。・・・こうした助言・・・大半は健全とするにふさわしく、少なからず調和する最も高い倫理的で宗教的な理想主義からなる。
どんな結果が結局のところこの教育から生じるのか、第一にそこで説教される側がいるし、第二に説教をする側がいる。・・・肉体的に道徳的に政治的に霊的に何かするところを我々が目の当たりにすると、あまりに多くの説教者が著しい失敗にあるから、実践において、彼らの説教は役立たずとなる。・・・樹木が果実により名を知られるように、研究として結実した説教から明白であり、何か決定的な間違いがそんな特定の樹木にある。
我々には直に感得した最高度の道徳や宗教の理想があり、つまりそこで我らは経験的に知り、流布された手法で反復される彼らの理想に大した効果はない。政治家・・・(など)期待するほどの良い結果にはなり得ず、ある時点で、教育者が発見し手段を吟味することになり、説教師と説教される側と双方がやれるようになり、自らの適切な意図を実行可能にし、何か説教されたものを実践可能にしない限り無理だ。ここで橋渡しをして、理想にある理論から本当の実践へ移行するのは明らかに大変な困難であり続け、そこで、大方の男女は今まで問題を避けていたに過ぎない。
いずれにせよ・・・旧い教育手法は有効だったとしてもたった一割だろう。・・・理論と実践の間に橋渡しをしなければ、人々は説教師だけでなく説かれた理想にも背いてきたことになる。・・・事実、冷笑主義(シニシズム)と盲目的狂信と、そのどちらも悲惨であり、人々は道徳的にも知的にも虚無主義者(ニヒリスト)になってしまい、そうした虚無主義をさらに続けようにも煌びやかな扇動家に引っかかり、行先はせっせと努める見掛け倒しの偽宗教つまり国家主義や全体主義や共産主義などになるのが関の山だ。何にせよ元の問題が未解決のままならば、状況として時はますます望ましくない方へ傾き、合理的解決にはならず、・・・解きようがない。
現代に至るまで解決策がたった二つしか発見されていない問題として、理想的理論と本当の実践の間に橋渡しするべき溝がある。一つ目はたいへん古めかしく、神秘主義的技術により超越した性格になり、進化する気付きを究極的に現実化するものだ。二つ目はごく最近、約50年前にF.M.アレクサンダー氏の発見により、それを言語で表現すると、あるテクニークで適切に用いる自己へ向かう、もしくは、ある手法で創造的に意識調整する心身有機体全体に向かう、としてもよかろう。
アレクサンダー氏の根本的発見を端的に示すと、人類にも他のあらゆる脊椎動物にも同様に存在するものであり、第一調整(プライマリーコントロール)で条件付けると、適切な使い方をする総合的有機体になる。任意の時点で、頭が特定の関係性で首に応じ、首が特定の関係性で胴体に応じると、(実は動物的経験にある事実)総体として、心身有機体の機能は最善な有機体本来の能力に向かう。ある時点で、いかなる理由にせよ、適切な関係性を示すべき頭や首や胴体で邪魔されると、心身有機体の使い方は不適切な方へ向かう。
動物の自然状態や人間の原始的条件は本能に依拠し、維持する機構において、第一調整の作用は然るべき作用となろう。しかし文明社会の興りに伴い環境は変わり始め、徐々に忙しくなる。人類がふと気付けば、自ら継続的に求めて適合しようにも、自己は不慣れな状況にいる。人々はかき乱され、戸惑うほどの干渉を直情(本能)に伴い、そんな結果に連れて第一調整の訓練は止まり、自己は不適切な使い方へ向かう。不適切な使い方をする自己が産み出す身体や精神の状態に、緊急な治療や矯正が求められる。しかしあらゆる試みで治療や矯正をしようとも、今のところ低迷し、多かれ少なかれ全く不成功である。というのもここまでのところ、彼ら自身も世間の人も第一調整を間違えたまま維持しているからであり、それではどう転んでも、つまり最善の意図を持った矯正者が自分自身や他の人々にやれるだけのことをやろうとも、不能な本質から、物事の結末は何をしてもどこまで行ってもおそらく強化されて拡がり、不適切に用いる自己となる他ない。
我らは誰しも、アレクサンダー用語による「結果をすぐに得ようとする人(エンドゲイナーズ)」だ。目的地へ向けて我らは急ぎすぎ、考え直すことを一度もせず、そこでもしも手段を吟味すること(ミーンズホエアバイ)になれば、我らは心身有機体に最高の成果をもたらせるし、目的に叶うが、しかしそうなっていない。ほとんどの教育方法はいかにも結果をすぐに得ようとする(エンドゲイニング)類にある。我らは自分の子どもを急き立てて目的地となる知識や道徳や健康へ向かわせようとしながら、手の内に何もなく、そこでもしも適切に用いる心身有機体へと子どもを導いていたならば上記の成果は程なく手に入っていたはずだが、しかしそうなっていない。そんな結果として、現在の成果を手に取ると不完全であり、高い代償を払いながらいわゆる悪機能をしている。教育者には、本当に、注意を払いながら「手段を吟味」しようとしている方々もいらっしゃるけれども、不運なことに彼らは無知であり、第一調整で確保し適切に用いる自己にいない。無知なるが故の試みにより、彼らは不具合を除去したり改善を確立したりしようとしながら、由来となる過程で直接攻撃をしている。しかしそんな直接攻撃ではやれるはずもなく、本質的な物事には無効だ。本当に、悪症状の一時しのぎになる直接手法はあるかもしれず、そこで検査すれば一部適正な成果が出るかもしれないが、しかしそうした結果はいつでも高い代償を内包している。というのも、もしも第一調整を間違えたままならば、あらゆる熱心な活動がどれほど善意に基づき、それと同時にいかなる部分的改善を達成しようとも、悪化する他ないからで、つまり根深い習慣による不適切な使い方は強まる。この意味として、いかなる良い成果があろうとも付随する有害な副作用の方が実はより重篤であり、仮にすぐそうならずとも長期化するかもしれない。暮らしに関わるあらゆるところで、唯一の経路は非直接的取り組みにあり、そうすれば、最も本質的成果が得られる。それ故に、宗教が無価値になるのは即座に利する改宗者を求める時・・・幸福感は副作用(副産物)であり、特定の結末となる他の結果を追求すると、幸福感を追求することにはならず、由来はもっと別の、単なる気持ちいい手段以外にある。・・・手法として、治療やエクササイズを考案し一時的に特定の肉体的症状を和らげようとしても、あるいは動作する意志を工夫し変化に向かおうとしても、望ましくない型にある思考や行動はそのままになるけれども、そこで非直接的な場合に限り、学習を通して身に付ける第一調整(プライマリーコントロール)により有機体はひとつの全体となろう。
当該テクニークを習得し第一調整を身に付けるのは・・・しかしこれは難しく、・・・抑制すること、つまり傾向として悪習慣を用いるのを止め、同時に適切な習慣を得ること、これを全く手助けなしにやるのは無理だし、そこには経験豊富な教師が要る。現時点で世界に・・・教師が存在する。・・・本来やるべきことは、誰もが利用できるようにこうした新発見へ橋渡しをして、理想的理論と本当の実践と往来することであるが、そのようにはなされておらず、(種々の教科書に関して)・・・そうしたくとも、仮に、読者へ提供するテクニークが認められ、自ら自己を行使して、心身訓練するために理想的な記述のある書籍群でなければ、そうなるはずなどなかろう。
再度、今までにたった二つしかそのような技術は発見されておらず、すなわちアレクサンダー氏のテクニークと、神秘主義のテクニークつまり東洋やキリスト教に生じたものだ。・・・肉体的訓練により東洋は発達し、・・・、言い換えると、それにしてもまるで的を射たかのように見える人々もいて、ここで特定の言及はしないけれども、習得にあたるのは第一に心身調整だ。以上がそうなるとしても、特定事実は残り、つまりアレクサンダー氏のテクニークを意識的に習熟すれば第一調整(プライマリーコントロール)が今では利用可能になった事実・・・(となった)。<
今では想定可能な全く新たな形態となる教育手法が存在し、影響は人類行為の全範囲に及び、つまり肉体から知性や倫理や実践をずっと通って御霊(みたま)に至り、以上を言い換えると、ある教育手法の由来は教授する人々が適切に用いる自己にあり、そうして子どもから大人まで保護すれば大半の病気や悪習慣で現在悩まされている人々はいなくなるだろうし、別の言葉にすると、ある教育手法の訓練として抑制や意識調整を供与すれば、男も女も心身的手段を携えた行動で合理的かつ倫理的になり、まとめると、ある教育手法によりもっと上に手が届けば、実体験に窮極の現実が訪れ得る。興味をお持ちになった方々への可能性として、新しくさらに効果的な教育手法が私の心から推薦する近刊にあり、つまり数々のやり方で大いなる啓発をするアレクサンダー氏の著作集がある。『いつでも穏やかに暮らすには』で皆さんが発見するものはそこに散りばめられた大量の興味深い事実であり、最も熟した智慧者となった一人の男の取り組みがあり、50年前に発見に至った手法により回復し、自分の失声から立ち上がり、由来は最も旧い非直接的な道にあり、全く唯我独尊であるというのも、ただ一人の実践的な哲学者で、教育者で、生理学者であるからだ。
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