●「アレクサンダーテクニーク、私はこのように観る・テクニークの真髄」
パトリック=マクドナルド著 ATKアレクサンダーテクニーク教師会編
翻訳者・横江大樹DJ 私家版で完成しました。
ところが、よその大手出版社との版権取得競争に敗れ、販売できなくなりました。
レッスンに来られた方だけに内部資料として手渡しします。(残念!)
原本 |
The Alexander Technique As I See It |
出版社 |
Rahula Books |
ISBN |
0-9515072-0-6 |
初版1989年、パトリック=マクドナルド氏がFM氏に初めて習ったのは10才ころで、リトルスクールに在席していたのでしょう。ケンブリッジでの学生時代にボクサーとして名を馳せました。その後、第一期生として教師養成学校に入学しました。現在のAT界には教え方に様々な流派があるようですけれども、マクドナルド派における方向の明確さは際だっています。 |
■■■
目次
紹介文 |
松嶌徹 |
まえがき |
|
アレクサンダーテクニーク |
|
ノートの走り書き |
|
第一章 |
アレクサンダーの発見 |
第二章 |
このテクニークを習得するには |
第三章 |
なぜ我らはテクニークを習得するのか |
第四章 |
テクニークを教える 科学と芸術 方向と動作 生徒の頭が前に行くので上に行くようにするところ 様々に変異したテクニーク 寄与する方向・「すること」や「するのをしないこと」 |
第五章 |
評価されるテクニーク |
フレデリック=マサイアス=アレクサンダー年表 |
パトリック=マクドナルドについて |
谷村英司 |
ATK:アレクサンダーテクニーク教師会 |
|
翻訳者後書き |
横江大樹(DJ) |
本文から抜粋
アレクサンダーテクニークの価値とは?
健康はかけがえのないものであるけれども、このテクニークで築かれる最善な基盤はその健康のためにある。もし仮に誰かが自分で誤った使い方をしてきたとして、そんな誤った使い方を今からでも修正できるなら、きっと有益になるだろう。もし仮に誰かの感覚的評価が間違っているなら、他の全ても間違いである。
ノートの走り書きから
・・・
様々な正しさと様々な間違い
忘れてならないことは、正誤が変化することである、というより、正しさも誤りも、身体や協調作用の変化につれて変化するはずだ。今日の皆さんに正しいことも、明日には間違いとなるだろう。となると、やってはいけないことがある、つまり、特定の協調作用を固定された絵として脳の中に正しく据え置くのをやろうとしてはダメで、別の言い方をすれば、何度も修正しながら長い期間をかけて変化させていかなければならないだろう。皆さんの学ばなくてはならないことは、いろいろな性癖や傾向に対する思い方であるけれども、固定された姿勢を思うのはダメだ。すべては(よく言われるように)相対的であるから、適正な関係は限定されたものにならず、つまり、首に対する頭だけでなく、首と頭に対する背中と首だけでなく、頭と背中に対する残りの身体部位だけでもない。皆さんが、こうした思い方を習い傾向を知る(このやり方で私は皆さんに教える)ようにやれたなら、自学自習でも続けていける可能性はある。
皆さんはゆっくり誤りを除去していくことになると、覚えておいて欲しい。ほとんどの皆さんも私も、結末まで見えているわけではない。
・・・
身体と心理
アレクサンダー氏の指摘あるいは他の人からの指摘もあるように、皆さんは身体と心理を分離するべきでなく、からだとこころは実際、二つの側面としてひとつのものの現れであり、要するに自己や個人はひとつである。しかしながらたいてい、話し相手は生育中にひとつの信念を持たされており、そうしたふたつが別々の存在であると思っているから、時々こうした言葉を使わなくてはいけなくなる。面白いことに人々を観察していると、「精神・心理」という言葉を大げさに使う人ほど思考能力がない。
・・・
変化
みなさんは変化してから前と同じままで居続けることができないけれども、これが大半の人の欲するものだ。
・ ・・中略・・・
第4章 様々に変異したテクニーク
1986年に招待を受け、米国ロングアイランド州ストーニーブルック市で開催されたアレクサンダーテクニークコングレス(AT国際会議)に私も参加した。会議の構成や演出が卓越していた一方で、私の全体的な印象として、合衆国のアレクサンダーテクニーク教師界は何とかしたい気分にさせられるものであった。下記の文は自分の感想として会議について書き留めたものであり、英国に戻る道すがら記した。
メモ:
この会議は良いアイデアだったし、希望的には、ある水準に基づく教授法が議論され、もしかすると解決まで行こうというものだったかもしれない。ところが数多くの異なる視点があって、それがこころから支持されていることもよくある話だけれども、どだい無理があり、ひとつの結論に至り当該テクニークに対して満足のいくように全員がそれぞれ上手くやるわけにはいかなかったようだ。困難な仕事であり、意味の通るように、果たして対立するアイデアが表明されているところはまとまるのか。
特定すると、以下のことに関して、いったいどんな意味になるのか、
(1) A free neck(自由な首)
(2) A head going forward and up(頭が前へ行くので上へ行くこと)
(3) A back lengthening and (背中が長くなりながら)
(4) A back widening(背中が広がること)
全く同意できることは、こうした用語に内包される必須要素がアレクサンダーテクニークに存在することだがしかし、もしかして、そうした言葉の意味が異なるものを指し、使う人によってバラバラならば、我らにもはやそれ以上の前進はないし、言葉を繰り返していても、同意に達して意味がはっきりするまではいかんともしがたい。こうした同意はまるで、とても難しくて見つかりそうになく、金輪際発見されないかのように見える。我らはこのようにして取り残され、対立した見解は相変わらずのままである。だから何だ。我らは選択しなければならないし、ある見解が自分に最も意味のあるものだと個人的にしておくと同時に、希望的に、自分らがそれほどひどい過ちにはなっていないと思うしかない。このようにあまりにも不満足な結論として、まさに私たちのいるところが示されている。
ひとつの信念が存在するようで、教師の中には「発展した」あるいは「前進した」理解や指導がアレクサンダーテクニークの内に創りだされるとしており、そうした教師はFM氏の文章を引用して自らの信念を支えている。これはひとつの信念であるけれども、私は感心しない。一旦取り除かれ必須要素が無くなれば、退行があるだけで発展などない。着飾って異なる形態のつもりで教授しても問題をややこしくするだけだし、もう混乱はたくさんだ。
ああ悲しいかな、これで何年になるのだ、私が希望に満ちて理解を増し強化してきた貴重な技術、それはFM氏と彼の弟から受け継いできたものなのに。私は確かに身を捧げ今日までにあるものを、一生の間そこへ打ち込んできというのに、残念にもこのアレクサンダーテクニークを訓練するところで発言している。
以上、幸せな言葉でないけれども、書き留めておかねばならなかった。
必ずしも害になるとは限らない、と個別のアプローチで当該テクニークに向かう人々がある一方で、実際に予想されるように、着飾って異なる指示で異なるスタイルの教授法を取るなら、こうした不一致を覆い隠してしまいかねないし、そうなると、教授法によっては完全に異なるものになり、私の心に描くアレクサンダーテクニークのあり方とは別物になる。私はそれだから表明させて頂きたく、私のよく考えたものを教授法の目的に据えるとすれば、その教授法で自分らの生徒を説得して、アレクサンダー氏の用語で「許したクビがラクになるようにして、許した頭が前に行くので上に行くようにして、許した背中が長く広くなるようになりましょう」と進め、生徒にこのようにやってもらい、なるべくいつも正確に生徒の日常動作で実行してもらうことになる。
生徒に必要なのはしっかり理解することであるし、その中身は、自分の普段やっている動作に誤った方向付けがあれば、首・頭・背中の関係性がおかしいことだ。生徒に理解されにくいこととして、ことの始まりから自分で方向付けている自分自身があり、それが明らかな動作をしない前から誤っていることであるし、それだから、こうした宿題として生徒は然るべき連続教授を受けなければならなくなる。我らが本当に探し求めているものは、やりながら「誤った存在」を変化することであり、「誤った行動」を変えるよりもむしろそちらである。連続した教授における指示の中で必要とされるのは指摘することであり、信頼不能な感覚的評価があるとわかったうえで、抑制された行動による変化も可能になる。これは「存在を抑制する」ことにはならないが、その一方で、生徒の「存在」に疑いなく含まれている誤った方向があり、脳から出されている。我らが探し求めているものは、ことの始まりから抑制であるし、過剰になっているこうした誤った方向が行動に現れるのをさせないことになる。教師なら手技を伴いながら、反作用させて誤った方向を減らしていくと同時に、生徒を説得しながら正しい方向が寄与できるように仕向けることができるし、そこに必ず含まれなければならない方向は、首・頭・背中に流れるものとなる。
さて、全てこうしてすっきりまっすぐに見えるけれども、単純に聞こえるようには行かないこともよく起きる。例えば、こうして抑制的に「反応を保留」したり続いて方向を寄与したりしているつもりで特別な物事をさらに助長してしまい、それこそが自分らの取り除こうとしているものなのに、そうなることも起きる。
最初の教師養成コースで自己や仲間を観察していたら、自分らがゾンビに変わってカチカチの首になっていき、叱られているわけでもないのにそうなるところがあった。アレクサンダー氏がしかと我らに伝えたものがあり、それが大いなる処置になってゾンビ主義を避けられ、ずっと移動しながら自分らの視線をいろいろな対象に向くようにしていればなんとかなった。私の助言で、全ての教師は外を眺めることでゾンビ主義を抑えたらいかがだろう。
それから、特に疑問があって、正確に方向を寄与する方向を手技でやるところにある。教師はいずれにせよいつでも100%正確であるわけにはいかないけれども、それにしても私の見るところ、あまりにひどいところまで教師のいい加減さが達していて、我慢にも程がある。
・・・