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 ●1973年12月12日 ノーベル賞受賞式典での講演  
  Ethology and Stress Diseases
Nobel Lecture, December 12, 1973
By Nikolaas Tinbergen Department of Zoology, University of Oxford,England
ティンバーゲンの講演・アレクサンダーテク二-ク(AT)の紹介
1973年12月12日ノーベル賞受賞式典での講演
映像:Nobel Lecture by Nikolaas Tinbergen (48 minutes)

「動物行動学及びストレスによる病気」 話者ニコラス=ティンバーゲン・英国オックスフォード大学動物学教授
 ・翻訳者:横江大樹(DJ)による前書き 2010年7月記

ノーベル賞の受賞記念講演は英語のURLで全面的に発表されており、誰でも利用でき、その程度に有名ならなんでも日本語で読めるだろうと思って、かなり捜しました。すると、田口恒夫訳編・「自閉症・文明社会への動物行動学的アプローチ」新書館、に一部訳出されていました。しかし、そこでは断りもなしに、アレクサンダーテクニークの箇所は完全に割愛されていましたし、子どもとのかかわりの記述にもおそらく経験不足による翻訳上の誤謬があります。
それで必要に駆られて翻訳しなおしました。私はアレクサンダー教師になる以前から生物や農業を専攻していたので、ティンバーゲン氏の名前には馴染みがありましたし、「不登校」生と長らく関わる中で自閉症児とのかかわりも全くないわけではありません。
こうして翻訳してみると、行間まで「知的好奇心」で支えられたティンバーゲン氏の偉業に感嘆すると同時に、氏にはアレクサンダー教師としての私には同意できない表現や解説がありました。
それで、皆さんが講演記録の本文に入られる際に、前置きをしておきたいのです。

アレクサンダー「教師」の立場から申しますと、アレクサンダーテク二―クは教育です。創設者FM=アレクサンダー氏が残した著作にもはっきりあるように、決して治療ではありません。本文中に何度もアレクサンダー療法(Alexander Therapy)という表現がありますが、違います。我々アレクサンダー教師の所に学びに来る人を生徒として教えることがあっても、患者(patient)として取り扱うことはしません。ノーベル生理医学賞を考慮して、医学用語をそのまま運用したのかもしれませんが、残念ながら、アレクサンダーテク二―クにおける最も重要な観点が誤解されています。また、ヨーロッパ出身のティンバーゲン氏はもともと英語を母語とする方ではなく、文体としても「英語っぽくない」ものが結構目立ちますが、翻訳文はなるべく彼の話した様に忠実に訳そうとしました。
それにしても、彼の体験と解説にはおおいに耳を傾ける価値があります。後は素晴らしい内容をどうぞお楽しみください。


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   「動物行動学及びストレスによる病気」 話者ニコラス=ティンバーゲン・英国オックスフォード大学動物学教授
  原文 https://www.nobelprize.org/uploads/2018/06/tinbergen-lecture.pdf

  (以下講演内容翻訳)
我々が驚いたのも無理はなく、先例に無い決め方でノーベル財団が受賞を決定した今年度の「生理医学賞」をいただきました。と言いますのも、受賞者の3 名はつい最近まで「単なる動物観察者」と見なされていた面々であり、少なくともコンラッド=ローレンツ氏と私を生理学者と見なすことは土台無理であろうからには、結論として、我々(科学目愛好科、scientia amabilis)を、今日において広く認知し統合するにあたっては、顕著に実践的な分野ということにして医学者の一部であるかのように見なさなければならないのでしょう。そうした理由を鑑み私は決意をし、本日の議論に値する二種類の具体的な実例を紹介するにあたり、どのように進めたら古めかしい手法(1)とされている「観察と疑問・見て不思議に思う方法」に基づいて諸現象が調査できるのか、(そうした現象は主に偶発的に生じており、恣意的なものはむしろ少ない)やってきたようにお知らせし、実際にもたらされる解放があるからには、苦しんでいる人々、とりわけ苦しみがストレスによって生じている人々が救われるような内容にいたしました。こうやって私が仕立てようとすることは、まるで、ある街に皆さんご承知の重要なワークがあり、そのワークは心理社会的ストレスと心理身体的病気に関連する事柄のように見えてくるでしょう(2)。

さて、私が提出するひとつ目の実例で、関わるうちに新しい事実と観点にさらされた実態がわかり、これはいわゆる幼児期の自閉症(autism)と呼ばれているところで見受けられました。自閉症とは一連の異常行動である、というレオ=カナー氏による初めての記述が1943年にあります(3)。我々、というのは妻のエリザベスと私のことですが、それが我々にどう見えるかというと、まるで事実上増加の一方で、数字上では西洋あるいは西洋化された社会でますますひどくなっているようです。そうした文献に従えば、自閉症行動・別名カナー症候群(4)とは明確であり、未だそうした気の毒なお子達と出会ったことが無いような他者にでも、いかにひどい障害で苦しいものかが明らかであるとされています。様々な度合いで苦しみが表現されているようで、他の事も多々あるようですが、例としていくつか、その内容をここに挙げますと、 ・  完全に引きこもって周りの状況と隔絶する。といわれており、それがまたどういうことかといいますと
・必要な行動が出来ないし、うまく話すことができない。たいへんのろくて様々な動作の要求に応えられない。
・強迫的に一つの物事ばかりを繰り返すが、繰り返しが出来る事柄は限定されている。
・行動は総じて無分別に見え、型にはまった動作である。
・EEGパターンで指摘されるように、極度の興奮状態に陥りやすい。
などとされているようです。

 
  自閉症から回復した人も見受けられる(その中には「なんとなく」治ってしまった人も居る)ようですが、その他大勢の回復しない人がその先に行き着くのは精神病院で、病院では同じ人たちがおおかた精神分裂病と診断されたのち治療を受けるようです。
それにしても、ますます大量の研究がなされこの課題が調査されるようになっているにもかかわらず(5)、医療専門家諸君の見解として、どんな状態を自閉症と認知するのか、その原因はどうなっているのか、従って最良の治療はどうすることなのかという事柄において、意見がかなりくい違っています。そのあたりについて簡単に見直すために、一点ずつ順に挙げていきましょう。
 

 

  一、見解の相違は、病名を特定するところで既に存在しています。例えば、445名の子どもにおいてリムランド氏が比較研究した結果があり、病名を特定するにあたり、まず最初にかかった医師が下したもの、次に「セカンドオピニオン、(別の場所での診断)」として別の医師が下したものを比較しています(6)。もし仮に、病名を特定する技術にどんなものであれ客観的な基盤があるとするならば、相関関係が積極的に存在し、それが第一の診断とセカンドオピニオンとの間に見出せるはずです。ところが実際には、リムランド氏が指摘しているように、形跡すら見受けられず、そんな相関は存在せず、病名を特定するにあたり実質的には気まぐれに拠っています。

原文p114
(表1)第一見解と第二見解の比較、445名の幼児が被験者で、彼らは深刻な行動障害を示している。1971年リムランド氏による調査。
表の中にある用語:自閉症・小児自閉症もしくは幼児自閉症・小児精神分裂病・感情的に不安定か精神が病んでいる・脳損傷か神経の異常・発達遅延・精神病(集団恐怖症など)・聾唖か一部難聴
こうした医師らがどんなことを発言してきたかと言うと、親に対して「親御さんのおっしゃるとおりですな。この子はどこか奇妙なところがありますな。」ということ以上ではなかったのです。
それにもかかわらず我々がこの自閉症と言う用語を用い、その用語の表現している中身を「カナー症候群」とするならば、この名称はよく知られており、比較的に都合の良い定義をすれば、自閉症とはかなり変わった人たちの集団と言えましょう。

二、見解の不一致が見られ、それにしても、特定の原因で自閉症が起きるという観点において、その不一致は著しいどころではありません。それが表われると二極化します。お決まりの「生まれつきか、それとも、後天的か」という論争です。大多数の専門家筋が著した自閉症に関しての文献において支持されている見解は以下に示すどちらかであって、主に遺伝的な障害とするか、あるいは同等に、修復不能な「器質性の」異常であるとされておりまして、たとえば脳損傷のせいとされ、そうなったのは困難な分娩時であった、というようなものになります。専門家には確固とした主張として、自閉症の「生じる原因は親の性格のせいではなく、同様に、親の育て方のせいでもない」とする方々もあります(7)。もし仮にもそれが真実であるとされたならば、ほとんどの場合でこうした子どもたちに真の治癒を望むことは到底望み薄になるでしょうし、最良の方法が望めたとしてもお子達の苦しみを和らげるくらいのことしかできないでしょう。一方で、専門家には別の傾向を持つ人らもあり、そのグループによると、少なくともいくつかの症例で自閉症の原因は有害な環境要因に帰すものであり、次のうちのどちらかのせい、すなわち、幼少の頃にトラウマ的な出来事が生じたせい、あるいは、親子の相互作用が継続的にうまく行かない状態でなされているせい、という見解を持っています(8)。もし仮に、こちらが部分的にせよ正しいならば、見通しが立ち真の救済も輝かしいものになりうるでしょう。
このように混乱したままで原因を探っていれば、あきらかに不一致な解答をせざるを得ない疑問も露呈しまして、それは、何が「主原因」で全体の症候群が引き起こされるのか、つまり、何が「問題の根っこ」に存在し、一方で、何をもって単なる症状と見なすのかと、そんなところにあります。ある人々の学説に拠ると、自閉症とは主として認識の問題であり、(しばしば一言で)言語障害だとしています(9)。別の集団の考えでは、極度の興奮を主原因としています(10)。一方、環境要因という仮説に賛同するものは以下のどちらかのせいであろうと考え、すなわち、ある条件では情報の総入力が多くなりすぎるせいであるか、あるいは、ある条件ではうまくやれず親密になれないから引き続いて生じる社会性がもてないでいるせいであると、考えています(8)。

三、こうして全体像を見渡せば驚くまでもなく、複数の治療方がすでにあり、それぞれの基礎とする観点が原因に由来するからには、これらの治療方法はお互い大変異なったものになっています。これではないものねだりといいますか、裁定しようにも簡単でなく、成功率を出そうにもいかなる治療法に基づいてするのでしょうか、また、子どもたちの人数を見れば、個人でやっている治療者の所でも施設としてやっているところでも決して少なくないのですから当たり前ですが、特定の線に沿って治療を行っても必然的に不完全になるほかないし、たいていは曖昧なものです。ある人が観察する際に、治療者が実際の行動をしている現場に行かないと、何を治療者が実際にやってきたのか裁定して理解することなど本当にはできないでしょう。
短い引用で、オゴーマン氏の最近出した文献を紹介しますと(4のP124)「・・・我々なりに努力してきた過去ではあるが、とんでもないヤブ医者でありとんでもない無能者であったようで・・・」とあります。
こうした全てに及ぶ欺瞞が見えれば、どんな手助けであろうとも外部から、つまり精神医学者でない者から、有効な対策が出されるかもしれません。まさしくそうした対策を、妻と私とで提出しようとしております(12)。やり始めてすぐに、自分らのワークで導かれた結論は反証、つまり大多数の意見とは正反対になり、そうやって、我々が形作っていった計画で治療にあたると、ほぼ例外なしにそれまで試されたことさえ無いやり方になりました。ここで言えることは、まず、高水準での回復への方向へ我々の治療法を試した人たちが向かって行ったことと、だから我々の感触としても希望が見えてくるということです。

さて、私の持論を展開しこの希望的な見解を紹介する前に、ひとつお知らせしておきたいことは、どのようにして、あるいはなぜ我々が関わりを持つようになったかというところです。
我々の関心が自閉症の子どもに向いたきっかけは、ほとんど過去に調査がされないまま、オックスフォード市にあるパーク病院において長期間にわたり入院を強いられている子どもたちが居ると知ったからです。しかし、あれは1970年のことですけれども、今からあげる報告、ジョン=ハットとコリーン=ハットという博士夫妻による「・・・じっと見られていやな顔をしているところを除外したとしても、他の全てにわたる構成要素で見られるように、他人と出会う際にこうした自閉症の子どもが示す行動を、普通の自閉症でない子どもたちも示しており・・・」(13.p147)、これを目にした時にはつい姿勢を正してしまいまして、というのも、長年にわたる子どもの観察から、普通の子どもが実によく見せる全ての構成要素にカナー症候群が発見できると、我々にも既にわかっていたからです。
何度も思い直しながら、覚えていた常識的ではありますが健康的な警鐘でもあるメダウォー氏による格言、「有益でないのは、変異のある行動を知ろうとする際に、その前提となる普通の行動も知らず、すなわち変異と分け隔てられるものを知らないまま進めることだ。(14.p109)」というのを見れば、精神医学者諸君の手法ではこの格言に対して実質的な注意を払ってこなかったことがわかります。彼らの文献をいくら調べても、普通の子どもについて見つかったものはほとんどない、つまり、提示されていればそれを基盤として自閉症と比較できるような記述がなかったのです。

もうひとつ気が付いたことがあり、それは、あまりにも多くの自閉症児が言葉を話さない(それで人の話しが理解できていないとよく勘違いされているけれども)ので、より良い洞察によって彼らの病状を調べるなら、非言語的な行動に基盤をおかなければならないだろうということです。そうなるとまさにこの側面では我々が応用できる手法が既に存在し、効果も確立されている調査法として動物行動学が使えるわけです(15)。そのようにして、我々が比較を開始するにあたり、我々の知りえた特定の非言語的行動において、普通の子が時折見せており、それが真の自閉症の子の行動とされているものを検証しようとしましたら、それは、過去に文献として著されていなかっただけでなく同時に、観察を初める際にずっと接近したところから直接的にやることになりました。
類型的な行動で、我々の注意をすぐに引いたのは以下に挙げるようなところでして、すなわち、その子が一定の距離を保って知らない人や状況へ対応しているところであります。細かい表情に表れるところが見え、その子の肉体に表れる態度がわかり、その子がずっと避けるように目を合わさないようにしたり、いろいろやったりしていることなど、そうしたことを見ていくと、非常に濃厚な組み合わせになって表現がなされており、そうしたものは全て明白に、拒否することに関係していました。(図1と2)
 

 

  原文p116
  図1写真の下にある解説
この2枚の写真は6歳になる少女のもので、
同じ年の春に取られたものである。
左、学校の写真屋が撮影。
右、この子の姉が撮影。
一目瞭然で非言語的表現がわかり、
それは動機の分析に使用できる。
ティンバーゲン1972年。
 

 

  原文p117
  図2写真の下にある解説
この例は、「一時的」あるいは恒常的に現れる
自閉症行動である。
左、典型的なちょっとした拒否のしぐさを12ヶ月の
普通の男子がやっているところである。
撮影時は、自分の家で、母親は微笑んで彼の方へ向き、
およそ4mほどの距離に居た。
この撮影者は、(普段ほとんど顔を合わさない)この子の
祖父であり、およそ1,5mの距離から撮った。
ティンバーゲン1972年。
 

 

 
右、「この反応は自閉症の子どものもので、繰り返し企てられるのは、大人がアイコンタクト(目と目で視線を合わせようとすること)をしようとするときである。(8mm映像からの転写である)ハット氏とオウンステッド氏による1966年の資料。」ハット氏が1970年に再構成。
ワークとして職業的な小児動物行動学が始まったばかりで我々に紹介されるのは、いかに広大な含蓄がありいかに精妙なものとして、その能力が及ぶ範囲があるかということですし、それがこうした非言語的表現に含まれています(16)。
それにしても観察によらずこうした行動そのものからいったん離れたところで、我々が証拠集めをしても、特定の環境によって引き起こされる普通の子どもの行動のうちに、一連の自閉症行動があるとわかりました。
調査の結果はこうして二元的に進めていったこともありまったく明快でした。即ち、このような突発性の発作が自閉症児で見受けられ、そして、同じ動作が普通の子どもに見られるときは、その子が自分の置かれている状況において矛盾や衝突を見つけたときであり、その衝突はふたつの両立不可能な動機の間で生じています。一方には、その状況で起きてくる恐怖(傾向として引き込んで、肉体的にも精神的にも小さくなる)があるにもかかわらず、もう一方に、その同じ状況で引き起こされる社会的で大抵は探求的な行動がしたい衝動があります。しかしこれでは、恐怖が邪魔をしてその子が冒険しようと世界へ向かうのをさせないでいます。それから、予期できないことではありませんでしたが、「もともと」内気な子ども(生まれつきでも後天的でも、その両方でも)が示す結果では、この衝突行動はずっと起きやすく、活発で自信のある子どもには比較的に衝突が少ないのでした。それにしても私の見解で強調したいのは、子どもは誰でもこうした環境に反応するということです。
いったん今述べた見解に到達してからというもの、我々は複数の手法で追試として簡単にやれる実験をやっていきました。実のところ、気が付いたら何年間も相互作用して子どもたちと過ごすうちに、かなり大量な実験を既にやっていたわけですが、そうした実験の目的は、自閉症行動を引き起こすためではなく、その逆で、むしろ自閉症行動を無くしていくためのものでした。既刊の論文で我々が著したように、こうした実験のどれをとっても、現実的で精妙に組み立てられた実験です。そうした論文から、我々が実際に何をしてきたかという部分を引用します。(12.pp2930)。

「我々が必ずすることは何かというと、こちらから訪問する時も訪問を受ける時にも、幼い子どもとその家族がお見えになったら、非常に短く一瞬の間だけ友好的にちらりと目をやってからは、その子どもを全く見ないようにすることであり、同時に、初対面の会話を続けている間、友好的な反応を親御さんからもらえるように進めることだ。そうやって実験者に見えるのは、相当量の行動を子どもがやっているところであり、周辺視野によって捉え、実験者が傍受できれば、驚くべき分量の行動によって子どもは自分の状態を現している。たいていは、こういったお子達は初めは熱心にじっと見ているだけで、知らない人を知っていくのにおそるおそるしているであろう。実験者によっては、既にこの段階で安心だと判断してしまい、ちらちらと子どもの方を見て、評定をもっと正確にやって、どんな状態にこの子がいるのか知りたくなるかもしれない。だがもしそれをやると、その子はすぐに目をそらしてしまい、アイコンタクトはすぐさま崩壊するに違いないし、あっという間にその子は実験者を知ろうとするのを止めてしまうだろう。実践的手法はもう少し刺激的になるのだが、それはもうしばらくすると現われてきて、強力な繋がりで接触をするところ、例えば、子どもが自分の手でひっきりなしに膝をなでるなどとして現わされるだろう。これがたいてい決定的な瞬間になり、すなわちそこでは、実験者が反応する時に子どもを見ては行けない(もし見てしまうと、ずっと後退してしまうであろう)が、その代わりに、注意深くその子の手を自分の手でそっと触れるのである。繰り返していくが、この「遊び」では必要に応じて、途中で止めたり一段階戻ってからやり直したりして、その子どもの反応を確かめながらやっていく、そうしてしばらくすれば、鋭敏な実験者はそっと確かめるような信号を出せるようになってきて、そうやって触れることで、例えばやさしく手で押してみるとか、すばやく触ってすぐ引っ込めるとかして何度もやれるようになる。そうなるとよくあることで、その子がこれを笑うかもしれないし、そうしたら実験者もこれを笑う、しかし、まだ子どもを直接見ないようにしたままでやる。もうしばらくすると、もっと可愛らしく継続して接触できるようになり、触ったり間接的に声を使ったりして絆を結ぶことも出来るようになってくる。実験者はそうなってからやっと、初めての誘惑的なアイコンタクトを取る。これは再び注意深く成されなければならないし、一歩ずつ着実に行われなければならない、しかしそれでも進める場合には、もちろん実験者は微笑みながら初めはほんの短い間にする。我々にわかったことは、始めに実験者が顔を隠して子どもの方を向き(おそらくアンドリュー君はどこかな、とかなんとかその子の名前を呼びながら)いないいないばあとやって、一瞬だけ実験者の目を見せて、すぐにまた隠すというふうにやれば、その子は微笑むか時には大きく笑うかすることだ。やっていくうちに突然、子どもがそれを自分からやりたがってくるときがくる。ストー氏とビュイック氏による論文(11)を参照。そうするとすぐに、その子はやってやってとせがんでくるようになり、急に平気になってきて、長い時間の直接的なアイコンタクトを一緒にやるようにもなる。こうしてかなりのところまで遊べるようになってきたところで、辛抱強く気付きを持って同時に微調整しながらわずかに後戻りして少し否定的な態度をとると、実験者にすぐわかるのは、その子が文字通り大騒ぎして不平を示し、密接な遊びで接触して欲しいと表現するところだろう。こうしたことをずっと続けていけば、その子があらゆる種類の表現をしていると理解されるに違いないし、それを正確に受け取って自身で応用していけば、同様に実験者が幅広いレパートリーを用いていつでも最良の信号を出せるようになるに違いない。この「仕掛け袋」は実験者になくてはならない代物であり、整備すれば最大限使えるに違いないし、そうして選定された「仕掛け」はいつでも柔軟に調整され、その子どもが個人的に示す好みに合わせて、その都度選びなおされるに違いない。いちど確立されると、お互いの絆は継続し、驚くほど精妙な信号で交わされるようになり、例えば、ある子どもがこちらへやってきて誇らしげに自分で書いた絵を見せてくれるのは、たいていすごくうれしいことを、ただ「お元気ですか。」とやって知らせ、それをこっちがわかればまたすぐに、さっきまで自分がやっていた遊びに戻っていくというようなものになる。単純な声のコンタクトでさえもうまく行くことがあり、その例で、よく似たものとしては鳥のさえずりのように(これは有名なスウェーデンの作家セルマ=ラゲルロフ氏が正確に記述しており「ニルス ホルゲルソン」では「あたしはここよ、あんたはどこ?」という意味だとか。)多くの子ども達がすすんで個人的なコンタクトコールを使っており、それに実験者が応対する際には、単純に同じ言語を用いなくてはならない。」
「この手順で進めると驚くほど急速に結果が現われるとわかり、しかも一貫して、実験者が自分自身を調節して結果を受け取る場合はそのようになった。いろいろな子の必要に応じて、それぞれ違った開始レベルがあるし、進み具合も様々であろう。実験者が、ずっと遠くから、その子どもが気に入っている部屋の外へ出たところから、開始しなくてはならないことさえあるかもしれない。これは大変重要なことであり、子どもにとって身体環境の影響は深く、どれほど慣れ親しんだところが大切かということを示す例だ。大抵の子ども達は一日ではとても足りない。だから大事なことを心に留めておきたく、実験を再開するにあたり、次の朝は前日の夕方に終わったところよりも少しやさしいところから始めなければならない。我々の感想では、この道筋でやっていくなら、急がば回れで、全部終わるのに結局速いのは実験者が常に落ち着いてゆっくりしており、実験者の感じで子どもの方からせかしてくるようなものがあってからより緊密なコンタクトを進めていくやり方である。」
こうした実験全部にわたり付き合ってきた普通の子どもたちのことを念頭において、我々は証拠を検証しなおし、恒常的に自閉症である子どもを調べることにし、再び我々自身で観察する際に、上記の文献に見受けられるものと同様なやり方を採用しました。すると二つの事柄がすぐに明確になり、すなわち、遺伝的な異常も重大な脳損傷も見受けられず、従って既存の説が成り立つような直接の証拠がないことと、我々の発見すべてにわたり、既存の推論や議論が欠陥だらけであることでした。
主要な推論として遺伝的な異常であるとする方々がおっしゃるのは、(しょっちゅう聞かされうんざりしますが)、「この子が異常だったのは誕生時からである。」というものです。加えて我々にわかったように、様々な理由によって専門家も親御さんも望んで環境要因を省みようとはとてもしていません。しかしながら、ひとつの所見として我々にも既知の影響がみられ、それは非遺伝的な作用で妊娠中の子宮において生じますが、そこでも新たな示唆がありまして、その影響とは妊娠中の風疹感染ですが、これはたったの一例(17)に過ぎず、そうとなれば、「先天性の異常」という説は当然、的外れです。加えて、少なくともふたつの症例で判明したのは、一卵性双生児において片方だけがカナー症候群を発症した症例です(18)。
同様に、脳損傷説をとろうにも不確かであり、憶測の域を超えていません。

その一方で、肉体に現われる肯定的な証拠の数々は環境要因によるものであり、この証拠は増加しています。例えば、多数の現場報告には、自閉症の発症は偶発的ではないというものがあります。比較的に、多くの自閉症は第一子に起きています(19)。またしょっちゅう見受けられ確信できることに、自閉症児の親御さんはどこか変わっていること、例えば、くそ真面目すぎたり、彼ら自身がかなりのストレス状態に置かれていることが多かったりします。そのうえ訓練を積んだ観察者には、自閉症児がまわりの状況に反応しているところがはっきり見え、自閉症児にとって怖かったり侵入されたりするようなことがあると、激化した症状となって現われてくるのでわかります。その逆に、我々が試しに「しつけ手順」を、普通の子とやったようなやり方で強度の自閉症児と続けていったところでは、往々にしてうまく行き、「彼らを貝殻から引っ張り出す」ことができ、彼らの方から我々に近づいて来るようになり、一緒に遊んで「タッチゲーム」をすることさえ出来ました。とてもじゃありませんが全ての証拠に言及することは出来そうにもありませんから、使えそうなところで指摘をいたしますと、第一に、多数の自閉症児は潜在的に普通の子どもであることで、それというのも自閉症児は親密な関係を持ってそこから派生していく社会的な道筋をうまく進めないままおろおろしている人であるからですし、第二に、この部分を追いかけて行くと何らかの幼少体験に遡ることが出来ることで、特別な恐怖体験のせいか、あるいは頻繁に見られることでは何らかの親の行動、特に母親の行動に由来します。ここですかさず言及しておきたいのは、我々はこうした不運な親御さんを叱責しているのではないということです。大抵の親御さんが単に経験不足(だからおそらく高い比率で第一子に生じるのであろうし)であるようですし、あるいは、ひどく心配性であったり、何でもやらせようと子どもに押し付けすぎたりしており、場合によっては、というよりほぼ大抵の場合において、親御さん自身がストレスを抱えています。そうなれば、他にも理由はいくらでもありましょうが、自閉症児の親御さんも、自閉症児本人と同じくらい慈愛に満ちた手助けを切望されているのかもしれません。

さて我々が、仮に部分的だったとしても正確な推論を用い、少なく見積もってもかなりの数に上る自閉症児は、ある種の環境要因の被害者として発症しており、彼らの基本的な問題が感情的性質から生じているとするならば、その際に、実験者の期待することは、治療の目標を彼らの不安が減少するように持っていくことであり、徐々に緊張を緩めていくことで臨機応変に社会適応しながら探究心を満たし、いつでもそうしたいときにはうまくやれるようになっていく方へ向かうだろうし、そうすればこの方法はずっと有効で、もう一方にある治療の目標を特定の技術を仕込んで身につけさせる方法、それに勝るでありましょう。不幸にも(私が既に触れてきたように)、良し悪しをはかろうにもほとんど裁定は不可能に近く、既存の文献からいかなる治療方法が実際に応用されているかを調べてみても、とてもうまく行っているように思えません。例えば、とある言語治療者はしつこく仕込んで変化させようとして、子どもを単なる「訓練された猿回し」として扱っており、そうなると、話すこと以外その子の症候群は全部放置されてそのまま残存するか、場合によっては前よりひどくなっているかもしれません。別のところにもし、うまく行っている言語治療者がいたとするならば、その人は物事を進める際に大変丁寧に、母親のような手法を基本に進めているのかもしれません。観察者としてこうした現場に立ち会う際には、観察者も一緒になって包括されてくるように進められるか、あるいは、観察者が細部にわたり熟知しどのようにして治療者が実際の作業を進めるかまでわかっているか、でなければなりません。その辺りを念頭において、今から簡潔に触れていく三つの例があり、そこに述べる治療法では、まるで結実が約束されているように見えるでしょう。

まず初めのものです。我々が最初の論文を提出するずっと以前からオーストラリア人の治療者であるヘレン=クランシーさんがいらっしゃり、自閉症児とその家族との治療にあたってなされていた線は、我々が1972年に紹介したものにかなり近いというより、実際にはずっと洗練されたものでありました。
クランシー氏の手法における要点は以下のようなものでして、すなわち自閉症治療にあたり、第一に関係修復を当初の目的において、お母さんと子どもの両方を治療しますし、家族全体にも関わります。彼女のやり方は挑発的で、母親の母性が増加して防衛的な行動が起きてくるように仕向けます。第二に、彼女が用いるのは、ある形で繰り返し練習して条件付けしていける動作であり、それによって素早く子どもが対応し母親の変化についていけるようになります。言い換えると、彼女が試しているのは、おびき寄せて、相互に感情的な繋がりを深められるような動作を母と子がうまく繰り返して出来るようにすることで、少なくとも初めは一口ずつ飲み込めるように教え、特別な技術を伝えます。母親たちは一緒にやろうと望んできており、そんな人らとクランシー氏はすこぶる希望的な成功を収めておりますが当然、少数(14年間に50例あるうちの4例)でうまく行かないことはありました。

二つ目です。最初に我々が論文を提出した後に、妻に送られてきた招待状には自閉症児の学校からのものもあり、それで実際にどんなことが行われているか観察に参りました。発見をしたその学校とは小さな全日制のところで、既に驚くべき数字として回復を示していましたし、そこでの治療はまるで、情緒的に安全で安心できるようにもっていくところに目的を据えており、だから教えるにしても、その子が社会性を帯びた肯定的な態度に到達するまでは、丁寧な言語治療さえ絶対に無理にやらせることはしないように見えました。我々のがっかりしたことは、この学校が養護学校と合併されたために、この実験が非継続になっていることです。

三つ目です。地元の精神科医に誘われ、一年ほど前から助言者として魅惑的な実験に関わって欲しいといわれました。その女医さんもずっと以前からご自分のワークを続けて来られた方で、我々の取り組みを知る前から実践されてきました。さて、三人の少年がいます。現在9歳・9歳半・11歳になる彼らは、皆そろって過去に専門的な診断で深刻な自閉症と言い渡されていた子どもですが、現在では普通の小学校に慎重に編入されています。時折ひとりひとりにお家での個人教授があり、理解のある校長先生がいて、親御さんも協力を惜しまずに進められています。結果は既に、豪華というだけでは物足りないほどです。実際に、ある小児自閉症の専門家がこの学校を訪れた際に、「もし、この3人の子どもがそのころ深刻な自閉症だったという2~3年前に遡った記録が示されることがなかったとしたら、そんなことを私は到底信じないであろう。」と我々に漏らしました。この実験がなされてきた線も我々の考えと一致していて、注意深く報告されています。
これによく似た証拠について既に発表がなされ症例研究までなされていますし(20)、現在の我々に確信できることは、数多くの自閉症において完全な回復が可能であることです。しかしながらこれは、我々の行動する際に用いる推論が、彼らにトラウマ的な出来事があったからだというところに立脚しており、彼らに遺伝や器質による損傷があるからだというところに立脚していない時に限定して成り立ちます。
これ以上詳細まで掘り下げることは出来ませんが、ここで要約し簡潔に主旨を述べるとして、動物行動学的な手法で初期小児自閉症へ対応したことで、何がどこまでわかってきたのかを以下に示しますと、
一、強い徴候があるとわかり、その徴候から数多くの自閉症者が苦しんでいるのは第一に、感情的な疎外のせいで症状が不安神経症的に生じるからであり、そのせいで動けなくなるか遅延させられて、通常の関係を持ったり付随して生じる社会性を伴った動作をしたりするのが難しくなり、ついで、発声や読み書きや探究心に発達障害があらわれ、その他の学習過程の基礎でもこの3つの行動様式(発声や読み書きや探究心)が妨げられ抑圧されていること。

二、これまでのところ、こうした精神異常の原因として遺伝的な異常や大きな脳損傷というのはほとんど当てはまらず、むしろしっかり当てはまるのは幼い頃の環境的な影響である。自閉症者の大多数は、その親御さんと同様に、生粋の環境ストレスによる被害者に見える。そして我々が普通の子どもとワークを続けて確信できたことは、このタイプのストレス病が現実に増加しながら西洋と西洋化された社会で見られることだけでなく、同時に、非常に数多くの子どもは半自閉症であると見なされなければならないことで、かなり深刻で危険な状態に置かれているとさえいえる。

三、治療方法にあたっての目標を不安の軽減に置くと同時に、再出発にあたりしっかりと社会性を持つことに置けば、ずっと効果的に進むと見えたが、一方で、即座に話せるように仕込む治療方法や同じように社会的な命令に従わせようとする方法は、ある症状に対する治療として最良にも見えるけれどもほとんど限られた結果しか生まない。時間をかけて何度も感情的なレベルで治療を進めるとそれが結実するころには、爆発的な勢いで話すことも他の技術も伸びていく。
ここで試しにたったいま自分で言ったばかりのことを自己評価するなら、心配とともに希望を感じます。
心配だというのは、この一隅において精神医学は大混乱状態にあるとわかったからですし、もうひとつ、権威的専門家である医師や教師や治療者の大方が、新しい考えどころか新事実にさえほとんど開かれていないように見受けられたからです。別の原因で心配なのは、公式に認知された自閉症者は氷山の一角に過ぎず、より多くの数に及ぶ子ども達が明らかに苦しんでいることで、それは多かれ少なかれこうした社会性ストレスのせいだと我々が確信するからです。

一方で我々の感触に希望があるのはなぜかというと、治療の試みとしてこうした子どもたちの感情レベルで関わってきたのはまだまだ実験段階だというのに、もう既に肯定的な結果へ導かれているからです。そして、若い精神科医の中に我々の見解に賛同する方々が増え一緒にやろうとする人さえでてきて、勇気付けられる芽生えがあるからです。
実際の利益になるように、こうした何万人に及ぶ不運な子どもたちに手を差し伸べるために、全ての影響に対して「ストレス観」を持ち、自閉症に関しては少なくともうまく行くのでそう疑って、お知らせしたような治療方法を試してみたらどうかと、そんなお話でした。
次に私が紹介する二つ目の実例も有益であり動物行動学的な手法で医学界へ迫りますが、これはまったく異なる歴史です。その中身となるワークは実に注目に値する一人の男FM=アレクサンダー氏の残したものです(21)。彼の研究は半世紀以上も前に開始され、これは動物行動学が復興して現在のような名誉を頂くずっと以前でありますが、彼の手順において非常に似通った近代的な観察を用いた手法があると我々に確信でき、彼とお弟子さんの偉業へ接近して注意を払うに値するとわかります。

アレクサンダー氏は1869年豪州タスマニア生まれで、若くして「朗誦家、お芝居やユーモラスな作品を演ずる人」として成功しました。ところがしばらくすると深刻な発声困難に陥り、ほとんど声が出ないところまで症状が進行しました。何人もの医師にかかったにもかかわらずお手上げで、しかたなく自分自身で自分の問題を解決しようとしたのです。まず自分を観察することから始めようと毎日鏡の前に立ち続け、何ヶ月もしてから、自分の声が最悪になる時に気が付き、それは自分で立ち方などを調整し自分の感じとしては最適で「正し」く、朗誦のために、一所懸命やっている時とわかりました。誰にも助けてもらえないまま、苦悩しながら何年も孤独な実験を継続し、どうしたら改良できるのか、現在では「使い方・(use)」と呼ばれる自分自身の筋感覚を含んだ全身に及ぶ姿勢や動きの変化を研究しました。そうやっていくうちに目を見張るような成果があがってきて、再び声を取り戻す調整が出来ました。このお話は、知覚認識を用いた知的でたゆまない継続から医学の門外漢によって現されたのですが、まことの記述であり医学的な研究と実践です、(22)。

アレクサンダー氏が、誤った使い方で自分を使っていると自分で気が付いてから、今度は観察対象を周りの人に広げてみたところそこで発見したことがあり、少なくとも近代の西洋社会で大多数の人間が立ったり座ったり動いたりしている時に、欠陥だらけのやり方になっていることでした。
シドニーで医者に後押しされて、彼は使命に目覚めたようです。当初は役者仲間にそれからだんだんいろいろな人に教えることを始め、適正な使い方の筋肉系へとどのように回復していくか伝えました。徐々に発見できたことは、そうやっていくと症状が軽減されて、驚くほど多種多様な肉体的あるいは精神的な病気が回復へ向かっていくことでした。彼には広範囲にわたる著作があります。最終的に彼は自分の元生徒を訓練して教師育成をし、自分がやったのと同じ結果が得られるように人々に伝えられるところまでワークを発展させました。ところで、何年間もかけてやっとワークを特殊な技術としてまとめ自分自身に応用出来るところまで彼自身はやってきたのですが、それが今では上手にやれば数ヶ月でわかり、その後も思い出した頃に「補習」程度のことがあれば効果は持続します。追記すると、正式な訓練を受けて良いアレクサンダー教師になるには数年かかります。
長い年月を経て、小さな人数ではありますが熱心な生徒やお弟子さんが彼のワークを継承しています。そうした方々の様々な成功例が最近書物になっており、バーロー博士のものもありました(23)。

正直に申し上げなくてはいけませんが、どのように治療が進みうまく働くかというところで、アレクサンダー氏による生理学的な解説を読んだ当初は(手技を英雄的に称えている彼の記述もあって)小さな疑問というより、とても信じられませんでした。それにしても、最初はアレクサンダー氏によってなされたこの特別な主張が拡大再生産され、バーロー氏によって同じ主張がなされると、今度は実にすごそうに聞こえてきたので、少しくらいはこの手法を試して、疑いに値するかどうかを確かめるくらいならやってもいいかと思ったのです。そして論議にあたって、医学的な手法をしっかり確かめるのに健全な経験主義に頼る「おいしいプリンかどうかは食べてみないとわからない」説に沿ってやることにして、妻と娘と私自身も試験的に治療を受けようと決意し、この機会を利用して観察し、その効果をやれるところまで批判的に調べてやろうと思い立ちました。そうした明確な理由から、我々はそれぞれ別のアレクサンダー教師のところへ赴きました。
そんな我々に、この治療の基礎が通常では考えられないほど洗練された観察に置かれていることと、その観察には視覚だけでなく同時に驚くべき範囲に及ぶ接触(体感覚)も用いられていることが発見できました。内容を要約すると、非常に丁寧なやり方以外はせずに、初めは調べるような、続いては調整するような操作によって全体の筋肉系に働きかけるものでした。アタマとクビの関係から開始され、すぐに肩や胸も含まれて来て、最終的に骨盤・脚・足の裏というように全身が調べられ治療されていきます。我々が独自に行った観察で、被験者の子どもたちに起きたことから、治療者はずっと継続して身体を傍受しており、彼の手順で常に微調整が行われていたとわかりました。生徒に応じて実際になされることは変更され、診断的に探求され、どんなやり方で誤った使い方がなされているかあばかれていきます。だから必然的に、効果の現われ方も人によってまちまちです。それにしても我々三名において気がついたのは、とても顕著な改善が以下のようにいろいろなところで起きたことで、高血圧・呼吸・眠りの深さが変わり、多幸感・精神的に敏活になる・回復力がついて外部のプレッシャーに強くなることが起き、きめの細かい技術である弦楽器演奏までもが向上し、驚くようなことがますます増えていきました。

以上のように個人的な体験があったから我々はようやく確信し、わだかまりなしに素晴らしい主張を了解でき、アレクサンダー氏と後継者でなされてきたその主張とはすなわち、うまく行かない症例があっても、それが病気のときでさえも、そしてそれが精神的であろうとも肉体的であろうとも、軽減されうるということですし、時には驚くべき領域まで向上するのは、この教えによって身体で筋肉系の機能が変化するからとわかりました。それに我々がまだコース全部を終わっていなくても、既に証拠は提出されていたのであり、アレクサンダー氏とバーロー氏による報告で有益な効果が様々に及んで生命機能に現われるとあっても、もはやそんなに驚愕することのようには思えなくなって来ました。彼らの長いリストに載っている項目をまずバーロー氏が「ズダ袋」と呼んだものから拾いあげると、リューマチや様々な関節炎に始まり、それから呼吸障害や致命的な喘息さえもあり、両人に従えば、循環器障害とそこから派生する高血圧、それから危険な心臓状態や胃腸に表れるさまざまな病気、様々な婦人科の病気、性的疾患、偏頭痛、鬱(うつ)で往々にして自殺してしまうような状態など、手短に言えば、非常に広範囲の病気が「身体的」にも「精神的」にも現われている際には、一つに特定出来る病原体によって生じているのではないとわかります。

アレクサンダー療法で何でもかんでも治りすべての症状がなくなると、誰一人として言っているわけではないけれども、疑いようもなく大抵は深遠で有益な効果が見られ、それを繰り返し言いますと、「精神的」な側面と「身体的」な側面と双方で起きています。
いかに重要な療法かということについて強力な支持を有名人からも得ていまして、例えば、ジョン=デューイ氏(24)、オルダス=ハクスレー氏(25)がおり、それから、コギル氏(26)・レイモンド=ダート氏(27)・偉大な神経生理学者シェリントン氏(28)らと、こちらの方が我々には納得できる科学者たちもいます。しかしながら、まず例外なく医学者はほとんど無視していますし、というのもアレクサンダー界がおそらく、ある印象では彼を中心人物とする「カルト」集団のように見えたのと、それに加えてもう一つの理由に、こうした効果を解説しようにも難解に見えたからでしょう。そこでここから、私は次のポイントに入っていくことにします。
 

 

  原文のp124

  図3.典型的なスランプ(だらっとした)座る姿勢。
バーロー氏による1973年
  図4.三つの座り方。
左・スランプ、
真ん中・「気を付け」のやりすぎ、
右・バランスが取れている
バーロー氏1973年

経験則で発展してきた治療方で実際に効果があがると一旦はっきりわかれば、今度は、どうしてうまく行くのかを知りたくなるものでしょうし、それがまさしく生理学的な解説になるでしょう。そこで最近の発見を用いて、神経生理学と動物行動学の境界領域で研究されたものを使って、アレクサンダー療法をもっとわかりやすくもっともらしく説明すれば、少なくともシェリントン時代よりはうまくやれそうです。

原文のp125
       図5(左).ある位置にある骨盤・背中・クビ・アタマで、
「スランプ」位置にいる。
バーロー氏1973年

図6(右).立っている姿勢、左・「猫背」、
右・バランスが取れている。
バーロー氏1973年
      

最近なされた発見に、カギになる概念として「再統制(re-afference)」という用語を用いているものがあります(29)。数多くの有力な徴候があります。ひとつの筋肉単位から複雑な行動に至るまで様々なレベルで統合が起きており、そうしたものが修正されながら働いてたくさんの動きがまとまっていくためには、脳で継続的な照合がおこなわれているという徴候です。それが生じるのは比較によってであり、つまり、まずフィードバックが報告されて「命令が運ばれた」と知らせるところと、フィードバックによって期待されるような、その信号が主導して一つ一つの動きが起きたと脳が敏活になるところとで比較されます。期待されたフィードバックと実際のフィードバックが照合された時に限って、脳による命令は止み、修正的な行動をさせる信号が途絶えます。既に発見者がこの原理を知った際に、それはフォン=ホルスト氏とミッテルシュタット氏の両氏ですが、機能的に複雑なメカニズムが働くから様々な動きで、ある瞬間から次の瞬間に変化が起こり、内側の状態ではそのとき主導的な「価値のある目標」という意味の(Sollwert)ゾルベルトという期待されたフィードバックの変化によって、運動の命令が出されるところに変化が起きるということが判明しました。

原文p126
  図7.姿勢の差。左がアレクサンダー療法を受ける前・右が療法後。

左の写真では筋肉緊張が首のシワとしてわかり、肩をギュッとして、腰をきつくしている所も見える。療法後はそうした緊張が消滅し、患者は全体として背が高くなっている。
しかしながら、アレクサンダー氏の発見はこれを超越していまして、人生で誤った使い方をされてきた肉体の筋肉系(例えば、長時間座わりすぎで、歩くことが少なすぎるといった理由で)では全てにわたってシステムそのものが誤ったものになりうるということでした。するとその結果として、報告され「全て正しい」と受け取られた脳の情報(ということはおそらく、正しいと解釈された情報)が、実質的にはすべて誤りになります。ある人が「気楽に」感じている状態、例えばテレビの前でだらけている状態が、実質的にはひどく自分の身体を痛めつけているのです。たいした例はお見せ出来ませんが、どれも皆さんお馴染みのものでありましょう(図3~7)。
未だに開かれた疑問として、厳密にはどこにあるのかまでははっきりしておらず、この複雑なメカニズムにおいて、照合される手順が誤ったものになってしまう影響が生じるのが恒常的に誤った使い方のせいだとしても、そこは研究中です。それにしても、アレクサンダー氏とバーロー氏の両人が表現しているところでは誤った使い方をとがめており、遺伝的な原因で誤った使い方が起こるとはしていないところに、現代の動物行動学者は心を惹かれます。直立二足歩行で極めて長期間にわたる進化の歴史を歩んできたのに、時間が足りなかったせいで、ホミニッズ・ヒト科が進化した正確なメカニズムを用いて二足歩行運動ができないままでいるとはおよそありえないと考えられます。この結論から受け入れられるし支持できることに驚きはしますがこれは疑う余地のない事実であり、40~50年に及ぶ明らかに誤った使い方の後でさえ、ヒトの肉体には可能性があり、(例えばこういう言い方)「一発で」適正となり、多くの点においてより健康的な使い方に戻れるし、この結果を手に入れるにも、30分のレッスンを短い期間に何回か積み上げるだけで可能です。明確に、遺伝的な古い環境適応行動があるところに、適正な立脚点をおいて行動します(30)。誤った使い方は、一連の心身的、というよりも身体から心理へ及ぶ影響であり、それ故によく考えてみれば、近代の生活環境による産物でしょうし、文明に押し付けられたストレスであります。ここで私見を一つ述べますと、自分では座っていることが多すぎるなどと思ってみたこともありませんでしたが、しかしながら、よく見受けられる「こわがる」ような、かがむ姿勢を取り上げてみますと推測でき、あまり仕事をやりたくないのにやらなければいけないときや、心配なときによくやっているように感じます。
二つ目です。もとより驚く必要はなかったのですが、丁寧な扱いで全身の筋肉に働きかけるだけで、こんなに深遠な効果が肉体と精神の双方に生じても不思議ではありません。心理的で肉体的(psychosomatic)な病気において一般的に見られる現象の発見が進めば進むほどに、脳と残りの身体間において極度の複雑さで行き来する流れに不都合が起きているとわかってきており、そうなれば、「こころ」と「からだ」を分離する硬直した考えを元にした医学は非常に限定されているとますます明らかになり、実は、その考えでは進展が阻まれうるとさえ言えましょう。
次に、生物学的な興味をそそる三つ目の観点でアレクサンダー療法を鑑みると、毎回のセッションではっきりとデモンストレーション(実際にやってみせる)があり、身体にある無数の筋肉群が継続的に調整されて、複雑に入り組んだ蜘蛛の巣のように動くとわかります。姿勢においていつでも、脚で丁寧な圧力が用いられて微細な変化が起きる時にはかならず、クビの筋肉が即座に反応します。その逆もしかりで、治療者のお手伝いによって患者が「解放」し、クビの筋肉で動きが起きてくると驚くことが見えて、全く深遠な動きが、例えばつま先にまで伝わり、診察台に横になっていてさえそうした動きが見られます。
こうした短い描写で私に出来ることは特徴をお知らせするくらいのことですし、皆さんにお奨めするとしても、アレクサンダー療法は非常に洗練された形のリハビリテーション(回復)になるというよりむしろ、再展開であり、全身の筋肉系においてはもちろん、全身の臓器にわたって影響するとお伝えしましょう。こちらと比較して、現在利用されている数多くの身体療法を見ると、びっくりするほど粗野でかつ限定的であり、その効果を見ると時と場合によっては有害なことまで、身体のほかの部分に現れています。
それで結局何なのでしょうか、こうやって簡単に成果を紹介して、初期小児自閉症とアレクサンダー療法をお見せしたわけですけれども。今挙げたこの二つの範例において、何が共通しているのでしょうか。それを真っ先に言えば、両者ともに医学的な科学のために、視野と心を広げて観察することに置き、つまり「観察と疑問・見て不思議に思う方法(watching and wondering)」を重要だと強調している点です。この基本的な科学手法は今でもよくバカにされており、蔑視している人は目隠しをされた学閥の輩であったり、威信をかけた「検査」愛好家であったり、誰でも薬漬けにしてしまう誘惑に負けた人であったりします。しかし、まさしくこの古い手法としての観察が用いられたからこそ、自閉症も、心身が一般的に誤った使い方をされていることも、新しい光にさらされたのです。それにこの光が遠くまで広がれば、両方が必然的に近代におけるストレス過多な状況から生まれてくると今気がついたところより、ずっと向こうまで照らされるかもしれません。
しかしここで、それを上回る私の感想として二つほど大きなことを言わせてもらおうとしていますが、それは医学的研究の領域にずっと広い含蓄をもたらすためです。医学的な科学と実践に出会うところで、ますます堅苦しい雰囲気と信頼の欠如が増えてきているというのが一般庶民の感想です。その原因は複雑そうですが、少なくともひとつ見直すことにすれば状況は改善されうるでしょうし、それはすなわち、もう少し心を開いて(31)、もう少し協働的に他の生物科学と一緒にやり、もう少し気付きをもって身体は一つの全体であると知り、統合体として身体と心が密接にあると知り、というようにやって行けば、本質的な部分から豊かになり、医学的研究の領域は広がります。それ故に私が仲間として医学者の良心に訴えたいのは、認知を深め動物の研究を使って欲しいということですし、とりわけ「明瞭な」観察に関しては使いやすく貢献でき、人間の生物学において使える領域にも、肉体がうまく機能しない部分のみならず行動を阻害する要因にまで有効であり、根本的な手助けになると我々に理解できれば、心理社会的なストレスによって、何が我々にもたらされるのかもわかります。まさしくストレスのせいだと最大の意味あいで取ると、ストレスに対して不適切なやり方で我々が調節してしまい、きっとそのせいでどうしようもなく混乱した影響が生じて、社会生活にもたらされているのです。
私が本日強く申し上げたように、たとえ特殊な応用性が動物行動学における研究結果に見出せたとしても、勘違いされるようでは困りものです。全ての科学においてもそうでしょうし、こうやって応用されはしましたが、始めに沸き起こった研究に対する動機は純粋な知的好奇心によるものでした。この度、受賞の機会をいただいたおかげで申し上げられるのは、生物学に起源をもつ研究を動物行動学においてなんとかやってはきたもののさえない予算内でしたし、ここで勇気を頂き、どんな動機であろうとも、根本的な目標が何であろうとも、研究者としてうれしかったということです。我々動物行動学者は準備を怠らずに対応し挑戦し、いかなる時も困難を乗り越えて行くに違いありません。
(終わり)


参考文献とはしがき(訳註。参考文献が紹介されている箇所は原文を参照すればいいので省略して、ティンバーゲン氏によるコメントや引用文がある箇所を翻訳しました。)
1、「私がこの手法を古いと呼んだわけは、間違いなく既に高度に発達していた我々の先祖による狩猟採集時代があったからで、現在でも西洋化されておらず狩猟採集で暮らしている民族として、例えば、ブッシュマン・エスキモー・オーストラリアのアボリジニーと呼ばれている人がいます。科学的な手法として応用され人類に用いられ、復活したといってもよさそうですが、そこはチャールズ=ダーウィン氏による1872年の著書「表現された感情をヒトと動物で見る」がどうも最初のようです。」

2・3省略

4、「カナー症候群について話す時に私が参照するのは、大抵の場合で、オゴーマン氏によるリスト表です。多少修正されたバージョンのようで、原本はクリーク氏によるものでしょう。数多く異なる定義が自閉症に対してなされていますが、そうした様々な形式では混同が起きており、観察された行動から逸脱したものや勝手な解釈が見られます。論説として、混乱した状況が用語「自閉症」にあるという私の論文(参考文献12、pp45・46)を見てください。」

5、目的を持って、他人のやり方を文献で検索したところ、いろいろ(原文参照のこと)あり、そのなかでもっとも最近のもっともやりきれない批評がありました。オーニッツ氏による1973年の「小児自閉症(医療の進歩)」から引用しますと;
「文献を通して(自閉症に関してのみならず、他の精神医学的なものも含めて)見てみると、一つの根本的な誤りを科学的な理由付けのところに発見できます。何度も繰り返し我々の受け取る批判があり、それは我々が看過して、「強固な」証拠としてだされた内側の機能障害を自閉症においても同様に他分野の精神病でも見ていないという指摘です。読者への確認のために申しますと、我々は看過しているのではありませんし、こうした証拠とやら(例えば、血液検査・鉛濃度調査・ EEGパターンなど)に目を通しています。特定の誤った推測がその背景にあるのは、ほとんどの議論において、こうした事実を利用する目的を光に照らして原因究明するところに置き、そうやって行動が逸脱する原因を知ろうとしているのでしょうけれども、まずもって常に、相関関係と因果関係とを取り違え、混乱しているせいです。例外的に(鉛中毒による危険な効果など)生理的もしくは生化学的な証拠が考慮されることもありますが、もし、何の理由も無しに、原因を指し示すことがなければ、相関関係がいくら見つかろうがせいぜい可能性の指摘ができる程度で、ある結果か副作用があるかもしれないというくらいが関の山でしょう。遅延している骨の発達や異常な数値が血液検査で見つかったこと(あるいは、重大な言語障害やすぐに興奮しすぎてしまうこと)などが「原因」で自閉症になる、というなら無意味であり、それではまるで高熱が「原因」で、腸チフスになったり肺炎になったりするようなものです。証拠があったとしても、分析的で根本的で実験可能であり、示されるものに、何を原因として何を結果とするのかという見解の基礎に基づいた「確固たる」証拠が示されなければ、実際には無意味です。我々の行った実験的な証拠に関しての議論が pp10・11に存在し、これは確固としたものですし、そこにある証拠とやらは相関関係を示しているようですが、いかに印象強くその技術が存在するかのように見えたとしても、科学的には無意味でありまして、別の計画が実行され、代わりとして因果関係が示されるような文脈にならないうちは意味がないままです。これが私の呼ぶところの、最後の段落にある「学閥の輩」による誤謬としての技術でありますし、並存して、誤った思考によって意味付けされた証拠立てがあり、そんな深刻な病に医学研究者は罹患しています。」

6~16、省略

17、チェス氏1971年「自閉症の子どもで先天的に風疹だった症例」から
「私が指摘して簡単に示しておきたいことがある。ある人が風疹を指して、初期環境の影響でありそれ故に「先天的」ではないと言い、それは「遺伝的」でないからだとする一方で、差し支えなさそうな言い方をすれば「器質的」ではあると、たとえ風疹によって十分引き起こすことができる心配な状況が既に妊娠中の母親にあり、この母親たちが聞き及んでいろいろ悪影響があるとこの病気について知っていたとしても、そう言ったとしよう。ということは、このこと自体が十分な原因になって、複雑な心身状態になりうるだろう。」

18、バイラント氏1963年「双子における不一致、初期小児自閉症に関して」
「私はもちろんわざと低く見積もろうとしているわけではなく、可能性としては遺伝的な素因も考えられるのだろうが、しかし、仮説であっても純粋に遺伝的な逸脱説を採用すると、はっきり矛盾することがこうしたタイプの観察に生じる。同時に我々にわかっていることで、双子が同じ家族で育っても彼らの経験が同一になることは全くありえない。」

19、省略

20、「全部の筆者が以下の本を著す中で、分類した上で主題を「自閉症」とみなしてやったわけではありませんが、それでも私がこれをお知らせするのは、そこに見られる記述に顕著な行動が確かめられ、全体像か一部であるかのいずれかがカナー症候群であるといえるからですし、すなわち、私が既に言及したように、よく考えてみるとこうした記述こそ唯一受け入れられる開始地点になるのです。」
ダンブロージョ1971年「言葉はなく、叫びがある」など数ある参考文献には原文参照。
「ここにあげられた7人の子どもたちの内で同じ治療を施された人はひとりもいませんが、しかし、全てを通して言えることがあり、子どもたちの治療への第一に情緒的なレベルを置いた方が、特定の技術習得レベルに置くよりも、明らかに顕著な改善を示しました。」

21、省略

22、「歴史を紐解けば医学的な科学にはこうした症例が山ほど見つかり、「突き抜け(breakthroughs)」のおかげで再び道を見出して注意が深まることがあります。参考までに・ジェンナーの発見では乳絞りの農婦が天然痘に感染しないことに気付いた・ゴールドバーグの観察で「きちがい病院」で働く人がペラグラを発症しなかった・フレミングが不思議に思ったのはまわりに空白地域ができた培地で、そこにペニシリン(あおかび)が発生していた、などがあります。」

23~31、省略

  原文 https://www.nobelprize.org/uploads/2018/06/tinbergen-lecture.pdf
  (翻訳・横江大樹/DJ)

 
 
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